私の笑いのボキャブラリーについて

 人は笑うことを好む。私自身も笑うことが好きであり、笑わせることも好きだ。笑うということを広く解釈し、楽しむとか満たされると考えると、私たち全員は何時如何なるときにおいてもその評価基準から逃れることはできないのである。
 面白い話題を提供できる人はそれだけで魅力的に見えるし、日常会話からビジネスに至るまで決して切り離すことのできない最も身近な才能であるともいえる。この才能を欲しがるのは当たり前で、否定する人などいないだろう。その才能が特に優れていれば、十分飯を食えるほどの収入が得られる。
 一概に笑いといってもいくつかカテゴリーがある。私の知っているタイプを列挙しよう。これ以外にも用いるものもあるし、実際に用いられる場合には複数のタイプに渡ることも珍しくないが、ある程度の分類は可能である。


吉田戦車・・・不条理タイプ

 私が最も好む分野であり、かつ得意とするものである。吉田戦車の『伝染るんです。』は私のギャグのバイブルとなっている。このギャグの優れている点は、飽きにくい、ネタとして非常に尽きにくく、たまらなく無意味なことだ。私などは彼の作品をほぼ全て覚えてしまったほどである。本棚から彼のコミックスを手に取ろうとしただけで、愛くるしいキャラクターを思い出し、吹きだしてしまうのである。
 少なくとも人気漫画家として、吉田戦車はこのジャンルのマンガのフロンティアであろう。彼の作品はしばしば不条理マンガなどと呼ばれる。矛盾した言葉で言い換えれば、非常識の中の常識なのである。
 吉田戦車の得意な展開として、A、Bという登場人物がいた場合、4コマ目で大抵どちらかが優位に立ち、一方は驚いたり、泣かされたりすることが多い。たとえば、私の好きな斎藤さんを例に挙げてみよう。『伝染るんです。』では、浪人する大学生として初めて登場する。その後、入試を突破し、大学生活を送り、就職活動する青年期が描かれている。
 斎藤シリーズの典型的なパターンで、彼は最後の4コマ目で「ぶぶぶ」と泣きながら空へ飛び、逃げていってしまうのである。彼を知らない人からすれば、「二十歳くらいの若者が空を飛ぶ?」と混乱してしまうことだろう。そう、彼はどこからどう見てもカブトムシであり、人間ではないのだ。しかし、吉田戦車の描く世界において、登場人物は極めて自然な存在・感覚を有しているかのように見える。カブトムシが人間と変わらない普通の生活を送っている。よく考えれば確かにその世界の設定自体が歪んでいるのだが、あまりに自然な振る舞いをしているため、その事実に気がつきにくい、違和感をほとんど感じないのである。カブトムシに受験があるはずがないし、ましてや人間とまともにコミュニケーションをとれるはずがない。
 そして、ここからが吉田戦車の特筆すべき技法(『伝染るんです。』で何かの賞を獲得した)である。その自然に見える不自然な世界に、一般的な感覚を持ったキャラクターを置いているのだ。この対照は妙技としかいいようがない。一般的というのは私たち読者の感覚であり、この漫画を読んでいるときに、私たちがどこかで漠然と意識している感覚を表現するキャラクターのことだ。いじめられるキャラ(この場合斎藤さん)やいじめるキャラそのものが直接的に面白いのではなく、その対比やそのリアクションを見るのが面白いのである。つまり、ボケている登場人物はストーリーにおいて極めて普通の感覚・行動をしているため、そのストーリーにおいてはあまりボケには見えない。一方で、ストーリーにおいて異常な感覚を持っている登場人物は、私たち読者の感覚からすると極めて普通の感覚を持っており、彼らは泣かされたり馬鹿にされたりするのだ。そのすれ違いこそが吉田戦車のマンガのエッセンスである。
 現実の世界での例を挙げてみよう。先日私が風邪をひいたとき、比較的大きな近所の総合病院に行った。総合病院には大きな待合室があり、多くの老人で溢れ返っていた。どうも老人にとっては、ここがこの辺に住む老人たちの井戸端会議場らしく、「○×さん、お久し振りですね。お元気ですか?」などと会話していた。後半だけ見れば何ら異常な雰囲気はない。しかしよく考えてみれば、病院にいるのに元気なはずがないのだ。老人にとって、病院に行くというのは比較的日常的な要素であろう。しかし、若者からすれば、元気ならば病院に来る必要はないのだ。私は帰宅して、ふとその会話を冷静に考えて噴出してしまった。
 もう一つ例を挙げてみよう。膝にサポーターをした爺が、看護婦と一緒に松葉杖で病院内を歩行練習していた。

看護婦 「はい、○×さん、今日のリハビリは終わりです。随分歩けるようになりましたね。どこか具合が悪くなっていませんか?」
爺 「最近老眼が進んで新聞がよく見えないんです。」
看護婦 「…それでは眼科に行ってくださいね…。ここは眼科がないから…。」
 看護婦さんは今日の歩行訓練が終わり、この老人の膝が痛くなったり、腰や背中や他の場所が痛んだり疲れたりしていないか気を使ったのである。一方、彼はこの質問を個人的に解釈し、自分の持病を説明したのだ。話が噛み合わず、看護婦さんは苦笑いして困ってしまったようだった。こういった例からもわかるように、吉田戦車は老人ネタを非常に得意としている。彼の描く老人は個性的な描写で良いキャラクターである。

 私個人の吉田戦車チックな出来事も話したい。わたしはあるアメリカ短期留学プログラムに参加した。当時から悩みの多かった私は、真実を知ろうと西荻窪にある占い喫茶アタールまで足を運び(家から電車で2時間近くかかった)、村野先生に気学でいつそれに参加すべきか聞いてみたのだった。それにしたがって、いくつかの日程から私の参加日を8月5日に決めたのだった。そして数日後、学務課からの呼出があった。

職員 「S君、あなたの予定日だった5日と、7日出発はなくなり、そのグループは全員4日に行くことになりましたから」
私 「それは困りますよ。僕はこの間わざわざ西荻窪まで行って、占い喫茶アタールで5日に行くように言われてるんですよ。村野先生はその日に行けば生まれ変われるって言ってたし、もし生まれ変われなかったらどうしてくれるんですか? 高い料金払って僕はアメリカで生まれ変わるんですよ」
職員 「…そんなこと言われても…ねぇ。もう決まったことだから…。」
職員は普段通り事務的にただ連絡事項を伝えるつもりであったが、意表をつく私の反撃に彼女はひどく動揺していた。近くにいた友人は大爆笑。「そんなこと言ったって意味ないだろ!」と、私をなだめた。
 3人の登場人物、吉田戦車的にずれたキャラクターが私であり、常識的なキャラクターが事務の職員であり、爆笑した友人が読者であることがわかるだろう。これらすべての登場人物は、この話において何ら不自然さはない。エッセンスは私が占いの生まれ変わる話で真剣に反撃したことである。それが吉田戦車のキャラクターが好まれる理由である。
 この事例のイントロはやや強調して書いてある。占い好きな人もいるだろうと読者は納得できる。しかし、そこから事務の職員との戦いを予想することはないはずだ。ちなみに、このように書くと私は占い少年のように思えるかもしれない。強くは否定しないが、制限時間30分の最後の3分くらいで少し留学の話をして、たまたまその日に行けば大吉だと言われただけである。それを参考にして(信じているというのは強すぎる言い方)、まあそれにすればいいか、といった程度の何となくの行動だった。精神的に疲れたときには、占いで勇気づけてもらうのもいいだろう。

 なぜ吉田戦車の作品が飽きにくい、ネタに困らないのだろうか。登場人物は至ってナチュラルな感情を維持している。無理なテンションを長い時間維持するのはなかなか難しい。そんな状況では多くのギャグを作るのは容易なことではない。しかし、吉田戦車の場合は、極めて自然な流れを持った二つの感覚、非日常における日常と、日常における日常を絶妙にすれ違わせているだけである。確かに日常であるので噛み合っているように見えるが、実際には微妙に噛み合っていないのだ。ポイントは、いかにして事実っぽさと明快な事実をブレンドするかというサジ加減である。
 私がこの手のギャグを使うと真似されることが多い。しかし、事実が多すぎても毒舌になってしまうし、事実っぽさの部分が少なすぎてもデタラメだということが簡単にばれてしまう(頭がおかしいんじゃないかと思われてしまう)ので、案外真似するのは難しいものだ。吉田戦車の作品でもまれに意味不明なことがある。
 他人からすると迷惑なギャグになるかもしれない。見た目が相当真面目で硬派な友人が、夏休みなのに学校でインターネットをしているとき、「M君、夏休みなのにさっきからなっちの画像ばっかりダウンロードするなよ」などと真面目な顔でウソをふっかける。これが吉田戦車的キャラクターの設定(私のでっちあげ)である。確かに男ならばなっちの画像を集めるかもしれない。夏休み暇な学生はわざわざ学校に来てそんな作業をするかもしれない。しかし、実際に集めていないのを知っていて私はデタラメを言うのである(彼の名誉のために言っておくと、卒論の資料を集めていた)。彼は「集めてねえよ、適当なこと言うなよ」とちょっとむっとしていたが(彼は寛容なので気にしない)、近くにいた他の友人は笑っていたし、近くにいた知らない女の子は、オタクっぽい人なのね、みたいな顔をしていた。
 K君がデジカメを買った嬉しさのあまり、いろいろな人物や風景を撮影しまくりパパラッチと化していた。当時「盗撮」という言葉が普及し始めたころだったので、私がボソッと「K君は南浦和駅で女子高生を盗撮しているらしいよ」と適当にデマを言うと、意外にこれが受け(これは本人の問題なのだろう)、いろいろな人がリピートするようになってしまった。数日後K君にもそれがバレてしまい、「S、適当なこと言ってんじゃねえ!」と怒らせてしまった。この手のギャグは繰り返されないその場限りのものであるはずなのに・・・。

 人を傷つけずに笑わせるというのは、実はそれほど容易なことではない。吉田戦車の場合、どうでもいいこだわりや特徴を持ったキャラクターを登場させることによって、結果的にその問題を上手く切り離している。彼のマンガは完全なる物語であり、リアリティはほとんど感じられない。
 彼は相当苦しい思いをした上で描いているような気がする。彼にとって解脱の境地があのような作品なのかもしれない。面白いことを書いてやろうという明確な意図もないだろう。ただちょっとした自虐性やいじめ心を楽しんでいるだけなのではないだろうか。
 彼の作品を初期から見直すと、初期の頃(くすぐり様あたり)から不条理さ溢れる作品を描きつづけている。作品によって割と好みが分かれるかもしれないが、私が特に好む作品は、やはり『伝染るんです。』である。『つやつや担任』は二番目に好きだが、やや暴力的である。最近の『殴るぞ。』はややマンネリ気味だ。

 ギャグ漫画のカテゴリーなのかよくわからないが、さくらももこの『ちびまる子ちゃん』もこの仲間である。マンガの生命線である個性的なキャラクターという条件を見事にクリアしている。私たちは、彼らのようなキャラクターに次はこう行動するだろうと期待し、作品に引き込まれてしまうのである。そのような感情は、子供がおとぎ話の展開に期待するものと酷似している。吉田戦車の場合は、そういったパターンを刷り込ませておいて、だいどんでん返しをするのが得意だ。可愛らしいいたずらというか、楽しい裏切りとでも言おうか。
 個人的には、『ちびまる子ちゃん』はアニメよりも原作のコミックスの方が好きである。やはり両者は別物として考えるべきだ。ちなみに、たまちゃん(アザラシじゃない)こと穂波たまえさんは女性としても魅力的なキャラクターである。主人公のまる子思いというか、あの優しさと、時に気丈になるギャップがたまらない。主人公に振り回され、時に主人公を諌めるキャラは、男たちの憧れではないだろうか(多分ちがう)。
 ヤングジャンプ(他誌にも)などに登場するような、いかにも男が思い描く女の子に私は興味がないというか、彼女らは現実に存在しないのである。あれほど男に従順でルックスが良く清楚な女性は、もはや現実の世界において絶滅し、今や男性の妄想の中でしか存在しえないのである。逆に言うと、男を作りたい女性はそれらを手本にすればいいのである。男は無防備に弱点を曝け出しているようなもので、コロッと簡単に撃墜できるはずだ。
 私にとってヤングジャンプで魅力的な女性キャラクターは、B級漫画『ハラハラドキドキ』の岡地面子だ。私はどちらかというとシャイなので、彼女のようにいろいろと積極的にリードしていただけると結構楽でいい。ドラゴンボールのブルマさんも非常に魅力的な性格とプロポーションを持ったキャラクターである。男らしさ全快にして言うと、まず何よりも素晴らしいのは名前だ。しかし、ブルマさんのように我の強い女性を受け止めるのは正直相当難しいだろう。鳥山明のエロチシズムはやや過激すぎるものもあるが、ユーモアがあり、男のツボを突いていていい。

 あまりこういうことを熱く語ると、お前は二次元の女の子にしか興味がないのか、と思われてしまうので止めておこう。一度たまちゃんがタイプだとか言ってしまうと、後で否定してもあまり説得力がないのは怖いものだ。私は三次元の女の子も好きだ。男は妄想する生き物なのだ。
 さらにちなみに、私の将来の野望は吉田戦車のキャラクターとしても十分通用する人間になることである。付き合う彼女はちびまる子ちゃんで通用するのが好ましいかな、一緒にいて飽きにくいだろうし。吉田戦車だとちょっとクセが強すぎるかも、というか人間以外のキャラクターが多すぎるので。下手に現実で火星田マチ子似のキャラクターに迫られても、一体俺はどうしたらいいのだろうか。とにかくあのような彼女に振り回される人生も勘弁だ。

 長らく脱線したが(読み返すと自分でも熱く書いているのがわかるし)、あえて吉田戦車の弱点を言うと、初対面の人や、インターネット上や、あまりに頭の固い人には、それがギャグとして正しく認識されないことである。この人頭がおかしいんじゃないの、それの何が面白いの、というリアクションになる。私が真顔で話しているからといって、ギャグを言わないとは限りません。私の書いている文章にこの手のユーモアがたっぷりと含まれていることに気がつかない貴方は、吉田戦車を楽しめないかもしれません。


浦安鉄筋家族・・・シナリオタイプ

 優れたマンガには優れたキャラクターがいる。もっとはっきり言えば、優れたキャラクターがいないマンガは、感情移入することができず、あまり受け入れられないとさえ思う。マンガがアニメ化されれば、それは人気作品、一流の作品と認知していいだろう。なぜなら、おもちゃ企業がスポンサーになるかどうか、つまりそのキャラクターグッズが商品として十分売れる商品に値するからである。
 この作品のユニークな点は、ギャグをコントとして成立させていることである。つまり、凝ったシナリオや綿密に練り上げられた仕掛に、キャラクターを出演させているということだ。作者の映画好きの影響なのだろう。最近コンビニなどで見かけた浦安のベストコレクションなどを読めばそれが良くわかるはずだ。
 悪く言えば、キャラクターの使い方が正当ではない。最近はキャラが死んでいるとさえ思うこともある。一話しか登場しないキャラクターが非常に多いこと、ストーリーにキャラクターを合わせるため、その展開がやや強引だったり、話題によってキャラが変わってしまったりするためだ。また、何度か繰り返し読んでストーリーを覚えてしまうと、それ以降は笑えなくなってしまう。
 吉田戦車と比較して、ストライクゾーンが広く、万人ウケすると言えばそうだが、打率の面では数段不安定にならざるを得ない。その点で私の評価は吉田戦車に比べ数段劣る。どうも批判的なことばかり書いてしまった。もちろんあえて批評するだけあるのオススメの作品だと思う。
 先日私の従兄弟が十二指腸潰瘍で入院した際に、そのお見舞いとしてプレゼントした。彼は私と同い年で、普段漫画を読む習慣はほとんどない。そんな彼でも十分楽しめることができたそうだ。ちょうど私が立ち寄った本屋(むさしや蓮田店)には、コミックス全3冊中2冊しかなかったので、コンプリートプレゼントはできなかった。しかし彼は個人的に退院後第3巻を買ったそうだ。笑いすぎで悪くならなくて良かった。
 最近見た映画でこれと共通するものが、ミスタービーンことローワン・アトキンソン主演の『ジョニー・イングリッシュ』である。ミスタービーンは国籍や性別年齢問わず、極めてストライクゾーンが広く、本当に誰もが笑える作品なのではないだろうか。劇場にいた全員が次の展開がどうなるのか引き込まれていたようだ。私たちはイングリッシュ(ローワン・アトキンソン)の次のアクションに期待し、彼はそれを決して裏切らなかった。
 私のコメディランキング不動の一位だった『メリーに首ったけ』を追い抜き、現在首位をキープしている。しかし、『ジョニー・イングリッシュ』にはラブがないという観点からすれば、僅差の一位である。ちなみに第三位は『ターミネーター3』である。今年有数のコメディであろう。

侍魂 健さん
 テキスト系サイトとして神懸り的な人気を誇ったこのサイトを批評しないわけにはいかないだろう。もし知らなければ、今すぐ見て笑ってこい、と言いたい。私がはじめてこのページを見たとき、例外にもれることなく爆笑したものだった。彼は熱い芸人魂を持ち合わせている。彼に対する敬意と、楽しませていただいた御礼としてここで批評したい。
 最近更新が滞っているのが残念である。その理由はまず大学を卒業して社会人になり、ホームページのための時間が割けないとのことである。彼の基本的なネタは、鋭い突っ込み、日常の友人らとの関わりに加え、多くの下ネタである。
 下ネタは本当に誰もが理解できる最も底辺のギャグだが、私はまずそれを使わないし、批評すべき内容ナッシング、ということで。彼のギャグの方向性としては、自分自身を貶めることが多い。私はここに彼の芸人魂、笑いに対する情熱を感じる。人間は他人の劣っている様を見て、基本的に悪い思いはしない性質である。彼のギャグは非常に万人受けするものだ。やや下ネタが多いのでお子様には見せられないという意見もあるが、小難しいネタや専門用語や内輪ネタなどは一切出てこない、誰もが楽しめる極めて普通の日常生活の匂いが漂う文章である。
 このギャグの弱点として、現実の話がベースになっていることから、その環境から離れてしまうとネタが尽きてしまうことである。大学を卒業した彼は、今ネタの拠り所を失い、ネタをインプットできない状況にあるように思う。
 彼自身も認めているように、優れた友人に恵まれ、しばしばユーモラスな状況に置かれている。正直な感想として、これらのネタは部分的に作り話と思わなくもないほどだ。サイトとしても人間としても羨むほど好かれるタイプなのではないだろうか。

一般的な上方漫才
 私は昔好んでお笑い番組『爆笑オンエアバトル』を見ていた。しかし、最近では質が下がっているというか、私の好みに合わなくなってしまった。面白いと思うのが一月に一組あるかないかくらいになってしまったため、最近はあまり見なくなってしまった。ラーメンズは面白かったのに。ダウンタウンの松本人志には天才肌的なものを感じる。家にいるときに、ガキの使いは基本的に見るようにしている。よくあれだけ話を展開できるものだと感じる。
 ツッコミがなければ面白くないボケの大抵は面白くないのである。そんな不完全すぎるギャグを見ていると、私は疲れてしまう。結局、彼らはテレビ局ご用達の芸人が目標なのだろうか。そうなると、私はあまり魅力的に思わない。
 私はあまりお笑い番組に執着するほうではないので、以上。すみません。

稲中タイプ
 これは私が最も嫌うタイプであり、ギャグとして認められないものである。マンガであって良かったというくらいだ。なお、この手のイジメ系のギャグを現実化したのが、石橋貴明、めちゃイケ、ロンドンブーツなどである。彼らはテレビに映る人間として風上にも置けない。特にロンドンブーツは、お気の毒な(といったら失礼だが)素人を集め、彼らがステージで馬鹿にされる滑稽な仕草を遠くから楽しむというスタンスを取っている。たまに何となく見ると面白いと感じることもあるが、製作者側としてはそういったイジメを意図として笑いを取っているため、よく考えれば非常に不愉快なタイプのギャグである。
 島田紳助などもそういった類だが、彼をはじめとする関西の芸人には、ボロクソに言われるのは笑いを取るためだという芸風があるようなので何とも判断しがたい。私は生粋の関東人である。人の悪口を言うのも、テレビ番組の中だけであって、それはお笑いという仕事のためなんだ、と言い訳をしたら見上げた芸人根性だと思う。ただし、出演者同士でその了解が得られているかどうか定かではない。そのため、名誉毀損の可能性がゼロというわけではないだろう。
 大きなテレビ局に関連の深い人間は、その権力に対して自己の尊厳も放棄してしまっている傾向にあるような気がする。いかなるときにも自己ありきというよりは、テレビの前に我ありといったタイプの人にはあまり魅力を感じない。ただし、女性アナウンサーなどが健気に生き生きと原稿を読むシーンは結構好きだ。憂鬱な朝でも、くたびれた夕方でも、孤独な夜でも、そんな番組を見ていれば何だか元気が出てくる。

 私のギャグのモットーとして、ギャグには馬鹿にすることや意味など必要ないのである。変な攻撃性を持つギャグを全く使わないわけではないが、最近はギャグで敵を作る(自分のポジションを示す)のはあまり実用性がないように感じるのだ。
 人間は模倣する生き物である。面白いと思ったものにすぐ影響され、真似するのだ。稲中のギャグのエッセンスは、下ネタ、イジメ、見た目の悪さなどである。漫画だからこそ笑っていられるイジメが現実で応用されると、洒落ではなく、本当にギャグにならない事態になってしまうこともある。人間(特に男性には)には一線を越えてはならないプライドがある。私の知っている限り、稲中好きの人は、ほぼ間違いなく現実でも彼らのギャグを真似する傾向にあった。その手のギャグで笑いものにするのは、個人の尊厳を傷つける可能性が高く、最悪の場合には、精神的に大きなダメージを負ってしまうこともあるだろう。このタイプのギャグが実際にギスギスした関係を生んでしまうことも珍しくない。こんなギャグはむやみに使われるべきではない。そもそも、マンガは人を傷つけるためではなく、楽しませるためにあるのだ。
 私は下ネタを使うほど話のネタが枯渇することはないし、セクハラの可能性も否定できないのでまず使わない。基本的に品のないものが嫌いであるという理由もある。見た目が悪いためにいじめられることについては、その悪影響を懸念するためである。マンガの世界において、描写が極端に悪い登場人物がいて、それがボコボコにされようがなじられようがどうでもいい。全ては笑うためである。笑いの質という観点からしても、ルックスが無茶苦茶であるというパターンを一度覚えてしまえば、それ以降笑うことは難しくなってしまい、あまりレベルが高いとは言えないだろう。


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